最初に許可をもらって訪れたのが「仙霊」でした。
初めて目の前にした茶畑。今でもその日のことは鮮明に思い出せます。
2月の寒い日。風が吹き荒れていました。
堂々とその地に根を張る力強い茶の木は、「寒いなぁ」と凍えて背を丸める自分と随分対照的に見えました。茶畑を大きく捉えると何にも動じることのない「静」の世界に見えてただその大きな存在に圧倒されるけど、近づいて葉っぱにフォーカスすると風に揺れたり小さな小さな虫たちが実は日々の営みを忙しなく過ごしていたり、そこには「動」の世界が広がっていて。現地に来たからこそ知った茶畑の世界に私は虜になっていました。
「まぁ寒いけどお茶でも飲みましょか」そう言って茶畑の斜面を下から見渡せる席に案内してくださったのは仙霊茶のオーナー、野村さん。(今となっては野村さんにも直接言えるようになったけれど)webサイトで観たおしゃれで洗練されたイメージと野村さんは良い意味で違っていて、ちょっと安心する。
今から思うとこの時の野村さんはこんなにも私がビジネスパートナーというか仙霊茶にしつこくついてくる人になるとは思いもしなかったことでしょう。笑
一方わたしはというと…ここでお茶をつくるようになると勝手に確信していました笑。なぜなら茶園を訪れた時に、「あ、わたしの心と体がここだよって、ぴったりきている」そんな感覚が強くあったから。
そして野村さんと少しお話ししただけで、この人のもとでお茶づくりがしたい、茶畑だけでなく野村さんの人柄がこのお茶を良くしていると。初めて仙霊茶を飲んだ時に思った優しい口当たりや、大らかな雰囲気、それがつくる人野村さんに出会って確信に変わったから。
「間違いない」なんだか上からだけれど笑、当時のわたしはこれ以上には出会えないかも、そう確信していました。
そうは言っても茶産地の茶畑は一通り見たくて、それから三重、奈良、熊本、鹿児島の茶畑にお邪魔しました。どの茶畑もそれを育てるお茶農家さんも素敵な方たちばかりで、ますますお茶づくりというものに惹かれていきました。
最終、知覧と本当に悩んだけれど、やっぱりやっぱり仙霊の地が忘れられなくてオーナーの野村さんに再アポイントを取ることになります。
野村さんのご厚意あって、当時のわたしは農作業に少しずつ参加させてもらっていたのですが(2022年)、体力的に一人で茶農家になるのはなかなか大変だなーと感じていました。実際、熱中症みたいな症状でぶっ倒れたこともありました。重い茶袋が持てず、男の人たちが軽々とそれを3袋くらい担いでいるのを見て、悔し涙が出てきたり。茶畑に囲まれて雑草をひいたり、収穫のお手伝いができること、それらもとても楽しかったけれど、収穫したらその先は茶工場のおじいちゃんたちにお任せ。この生葉がどういうプロセスを経てどんな茶葉に仕上がるのか。毎日農作業を手伝う中でそれがすごく気になるようになっていきました。
そしてオーナーにお願いして工場に一日入らせてもらうことになりました。
まずは工場長の後ろをずっとついてまわり、見学させてもらいました。
結構オートマティックに仕上げていると思っていた製茶の世界は一日いただけでもその奥深さが垣間見えるほど。正解はきっとなくて、ないというか自分で正解を決める世界で、限りなく人の技によって生み出されていることを知りました。それは私にとっては、なんかもう宝物を見つけたみたいな感覚で、私がやりたいことは農作業より生葉を製茶するプロセスなんだということにその時気づきました。
「人生かけてやりたいことに出会ってしまった」と、私は30歳という節目の歳に幸せすぎる発見をしました。
煎茶も紅茶も烏龍茶も、もとは全部同じ葉。同じ農作物からこんなにも味に違いが出るものをつくり出せる、そのプロセスがとても、とても!興味深い!!と感じました。しかも、茶工場にいるその道30~40年のおじいちゃんたちにどうしてこのタイミングなのですか?と訊いても「ぜんぶ手の感覚やけ」と仰る。その手の感覚をいつか分かるようになりたい!とも思うし、もう少し実験的に積み重ねることで数値化できれば更におもしろいな!と思いました。
UKIYO TEAをつくりたいと思った当初は農作業から販売に至るまですべてを1人でやりたいと思っていましたが、製茶業から販売までに的を絞って、まずは製茶について勉強したいという方向性が自分の中でみえました。
私って本当にラッキーなんですが、そのことをオーナーに話した時、じゃあ夏からの紅茶づくりも一緒にやってみる?と仰っていただけたんですよね。やっぱり仙霊に来て、そして今のオーナー野村さんでなければ、こんなにトントン拍子には絶対なってなかったと思います。本当にオーナーの寛大さに感謝だなぁと…こうやって書いていると改めて思います。
そうしてわたしの製茶人生がスタートしました。全国の色々な茶畑を見に行ったりして、UKIYO TEAの中身をつくることができる土台が、土地にも人にも恵まれて、1年半かけてようやく出来上がりました。それも自分が一番惚れた茶畑で。私の人生の運をすべて使い果たしたんじゃないかと思っていますが笑、それでもこんな幸運な巡り合わせに辿り着けたなら全然それで構わないなって、そう思います。
煎茶の収穫が終わった後、紅茶づくりが始まりました。紅茶を愛飲してきたし、ハンドメイドティーのワークショップに参加したりしたこともあったので、説明的な「つくり方」は知っていました。でも、このプロセスがどうしてこういう結果になるのか、とか、これまで当たり前に知ってたワードに対しても生産者という立場から見ると全てゼロからのスタートでした。
紅茶ってちょっと本とか見たら例えば「グレード」とかって絶対解説される部分になってくるのですが、要は茶葉のサイズと見た目を区分分けしたものなんですよね。もちろん好きだから知ってはいました。
だけど生産者の立場から考えて何でこの区分分けが必要なんだろう?って思って、一つ一つに疑問を持つ。
そして実際につくってみて納得したり、また疑問がわいたり。プロセスについても同じです。最初の一年はずっとその繰り返しでした。でももうそれが楽しくて楽しくて、毎回の製茶は実験のようでした。先週はAとB条件、今週の製茶は先週の結果を踏まえてB条件でまた2パターン条件をふりたい。そんな感じでどんどん条件をアップグレードして毎週のように紅茶づくりをさせてもらいました。
すると、なんとその姿を評価してくださったんですよね。経験も知識もゼロのわたしを、職人として仙霊茶をつくるのはどうか、と。そんなお話しを秋の紅茶づくりが終わった頃にオーナーからもらいました。
正直、わたしには無理だと思いました。
当初はUKIYO TEAをつくることだけが目的だったので、300年の歴史ある仙霊茶を担うにはあまりに責任が重いと感じました。もっと経験も知識もあって即戦力になって仙霊茶をつくっていける、もっと良い人が絶対いるのにって、そう思いました。
でも、そういうことを話した時に「経験や知識が欲しい訳ではなく、ここのお茶をよりよくしたいと思ってくれる人が欲しい」と言われたんですよね。その時に、確かにその気持ちならわたしより右に出る人はなかなかいないかもしれないって思えて―。
UKIYO TEAをつくることだけが目的だったわたし。当初は全国から選りすぐった茶葉と自分のつくった茶葉を混ぜて、ブレンダー兼製茶もしています、みたいな感じで販売しようと簡単に考えていました。
でも仙霊という茶園に出会って、ここで育つ茶葉に対して愛情のような想いがどんどん大きくなっていって、そしてその茶園に関わる人たちのことも大好きになっていって、いつしかここで育った茶葉だけを使うって心に決めた自分がいました。そう考えた時に、300年の歴史ある仙霊茶も、知識も経験もゼロの自分が一から一緒になってつくらせてもらえるチャンスって、、こんな凄いことないなって、すごく有り難く感じましたし、この茶園への愛の気持ちなら結構負ける気がしないなと思ったので、そのお話しを受けさせてもらうことに決めました。
こうして、この茶園に来て2年目が終わりを迎える頃。
仙霊茶をつくる一員になり、そしてわたしのUKIYO TEAは仙霊茶の別ブランド枠として、仙霊から販売するということが決まりました。
つづく