UKIYO TEAという形にするまでに、本当に紆余曲折あって時間がかかりました。
しかも、それは何もお茶業に携わってから始まったことではなく、中学2年生の頃から既に始まっていたのです。
それはどういうことか?
―わたしはきっと、たぶん、ずっと、自分の感情を表現できる何かを探し続けてきたんです。
中学生の頃にいじめられたのは、波瀾万丈な人生のほんの序章に過ぎなくて、綺麗に書くならそれから幾度となく荒波が押し寄せてきました。(これはもう話が長すぎるから割愛します笑
その度に、生きづらくて、生きるのが嫌になって、そんな自分のことが嫌になって、嫌になって、嫌になってきた。
最初はそんな自分を受け入れられなかったけれど、紅茶と浮世絵に出会って、そんな自分も自分の一部で、大切な自分なんだと少しずつ思えるようになって。メンヘラでいいんだって!
だからこそ、ネガティブな感情があることは決していけないことじゃなくて、それもあってこその自分なんだって、それに気付いてからは、そういうことをずっと表現したくて。きっと同じことで苦しかったり生きづらかったりする人がいると思って。でも、別にそれを励ましたい訳でも何とかしたい訳でもなく、ただ自分の感情として表現したい。その想いを強く持ち続けてきました。
そう、UKIYO TEAは結果として行きついた形。
何の形になるかは決まっていなかったけれど、中学生の頃から私は「形」をずっと探し続けてきたんです。
私の「表現したい」という想いはいつもダークなところからやってきます。
毎日楽しく平凡に過ごしているときには何かを表現したいとは思わなくて。
ピカソになった訳でも壮絶な過去をうたうロックアーティストになった訳でもないから偉そうには言えないけれど、心のダークが私自身を突き動かし、わたしをアートにさせる。心のダークがわたしを表現者にさせる。
だから私にとってはとても大切な部分で、そのダークに浸る時間があるからこそ「形」にしたくて、どんなに苦しくてもその「形」が日の目を見る時まではせめて、と思い生きてきました。
だから私は今、やっとその「形」を生み出せる時がきたんです。
幼い頃から習っていた絵画は途中で心でなくて頭で描くようになってしまって、ちょうどそういう感情を表現したいと思い出した頃に描けなくなってしまった。
それから私の表現の対象は「詩」になった。たくさん書き溜めたけれど、音痴だから歌詞にして歌って表現することはできないし、ホームページを作って公開してみたけど、なんだか違う。
直接表現できないならと、趣味でやっていたドラムで何かを表現したくてバンドを組んでたくさんライブもしたけど、ドラムで表現できることは、自分の表現したいこととはまた違うものだと感じました。
大学では心理学を専攻しました。表現できる「形」が見つけられないなら、もういっそのこと自分の気持ちをコントロールできるようになればいい、と。心理学を学べばそれができると思ったけれど、心はそんなに容易くなかった。
そうこうしているうちに社会人になりました。
学生時代にアパレルでアルバイトをしていたのですが、接客業が天職だと自分で思い込んでいました。それなら人の大切な人生の節目に関わる仕事がしたいと、ブライダルの会社に就職しました。
時間に追われる毎日で、自分の感情を表せる場はSNSだけになっていました。しかも、それもギャラリーがいると思うと恐くて、自分で操作した上での感情しか表現できなくなっていました。
そして25歳のとき、子供が生まれました。
所謂授かり婚だったけれど、結婚生活はたった10か月で破綻。
そのとき私はもう自分の感情と向き合うことを辞めなきゃいけないと思いました。せめてママは笑顔でいなくちゃ。そう思い込もうと努力しました。
もう「形」にすることを諦めないといけないと。
1年半の育児休暇が終わり会社に復帰しました。
子供をひとりで育てていかなければいけないという責任から、大学での心理学を活かしてカウンセラーの仕事も副業で開始しました。
離婚の傷も癒えていないせいか、心のダークは定期的に波のようにやってきて、のむかのまれるかのせめぎ合いで、のまれないために全ての自分を押し殺す。AIみたいになってただ仕事と育児と家事と、ずっと働く。自分の感情のことなどにかまっている暇はありませんでした。
でもその生活も2年も続けばわりとそつなくこなせる習慣になっていました。そうすると自分と向き合う時間も増えてきて、心のダークがこれを形にしたいと自分を突き動かす、あの感覚がまた少しずつ自分の中に返ってきました。
会社では個人を出しすぎることも良しとされないし、マニュアル通りの優等生でいることにも限界がきていました。ブライダルの営業ってこともあって、ネガティブなんて1番排除しなければいけない対象で。
副業に選んだカウンセラーなんて更に言うまでもなく自分の首を絞めることになりました。
やっぱり、やっぱり、封印していた自分の表現したいこと。
母親になってもやっぱり一人の人間としてこれを「形」にしたいという想い。
その想いと仕事の内容にだんだんと乖離が生まれてきて、そんな自分と日々葛藤していました。
―そんなある日。
表現したい自分の感情を「形」にできる場所となった茶業。
そこへ行きついたきっかけが突如訪れます。
つづく