小学生の頃から絵画を習っていたこともあり、アートにはとても興味がありました。幼い頃から母に連れられて、よく展覧会や美術館に西洋画を観に行っていました。だけど、なんだか、心は動かされない。
小学生の頃通った絵画教室の作品で自分が1番興味があったのはタイの神様の版画を彫った時でした。ズボンの柄や手足の動き、すべてが興味の対象でした。色に決まりなんてなくて、柄も複雑で、なんだかとても自由だったんです。
ところが中学生になったわたしは自由な発想を失いつつありました。
空は青色。雲は白色。固定概念にだんだんとがんじがらめになる自分。
心でなくて頭で絵を描くようになってしまってからは、すっかり筆も進まなくなってしまい、だんだんと絵画の世界からも遠ざかってしまいました。
そんな頃、衝撃は突然に―
歴史の授業中、資料集で江戸時代の文化として浮世絵が紹介されているのを目にします。「ポッピンを吹く女」「見返り美人」「歌舞伎役者の大首絵」確かその3枚でした。
私はポッピンを吹く女を初めて観たとき身体の中に雷が落ちたような衝撃に見舞われました。マンガでビビビーーッッて骨が描かれるシーンを見たことがあって、そんな大袈裟な…と冷ややかな目で見ていたけれど、本当にそんな衝撃が人生の中にあることをこの時身をもって知りました。
なぜだか分からないけれど目新しさと懐かしさを同時に感じる。
表情や手のしなやかさ、艶めかしさ、着物のコーディネート、かんざしの煌びやかさ。女性の柔らかさ、優しさ、芯の強さまで感じる
私はその絵を見た時、本当に周りの音が何も聴こえなくなって、時が止まったみたいに釘付けでした。
浮世絵と出会ったその日から、今風に言うとわたしの「浮世絵推し」が始まります。
学校の図書館の資料集を見てみる。浮世絵集を買ってみる。高校生になってから現在に至るまでは行ける展覧会にはとにかく足を運びました。
技法とか最初の頃は何もわからなかったけれど、なぜか浮世絵を観ている時だけは紅茶を飲んでいる時と同様にすべての自分を肯定できる気がしました。
浮世絵に描かれる女性を観ていると、なんだか分からないけれど、自分のルーツを思わずにはいられない。
だから、自分を受け入れるために、もとより自分は何なのか、何で生まれて、何で存在して、今ここにいるのか。
正解なんてないけど、浮世絵に会いに行く。とにかく浮世絵に会いに行きたい。そしたら何だか、自分も他人も長い長い歴史の点でしかなくって、ずっとずっと過去も未来も繋がっている、繋がっていくって、だから何も特別でなくていい、ただ点を生きればいい、生きることに理由なんてなくていいと、そう思わせてくれる。
浮世絵は私に「今ここにあるもの」を気づかせてくれる大切な存在です。
結構飽き性なわたしだけど、この浮世絵が好きって気持ちはあの日から今日も、きっと未来も、ずっと続いていて。
アートは不思議なものでそれを観る時の自分の状態で全く別物にも見えてしまう。音楽とか本とか、人によってそれぞれ違うんだろうけど、なんでもそうなのかな。だから何度会いに行っても飽きなくて、わたしはずっと浮世絵推しな訳です。
イジメられて世界中でたったひとりぼっちみたいに感じていた絶望の中、出会えたというより寧ろそんな中にいたからこそ輝いたのかもしれない、「紅茶」と「浮世絵」という2つの存在。
特別じゃなくて、わたしの側に変わらずあり続けた、まさにわたしの一部ともいえる、大好きなもの。
それがかけ合わさって結果としてUKIYO TEAという形になった。
つづく